習い事とお寿司とTシャツが乾くまで(第三話)、の考察
今日も暑い。
息子は最近、歩いて学童へ行っている。
マレーシアでは、子どもが一人で歩いて学校へ行くなんて、ほとんどありえない。
でも、私の絵本『およいで いえに かえりたい』は、学校からの帰り道がテーマだ。
学校からの帰り道は、子どもにとってのワンダーランド。道端の草や虫を見たり、寄り道をしたり、いろいろなことを考えたりする。
息子にも、そんな経験をさせてあげられることが、とてもうれしい。
そして今日は、くもん書道の体験にも行ってきた。
このところ、なかなか盛りだくさんの日々が続いている。私も息子もよく頑張っている。
そうだ、今日はお寿司にしよう!
ということで、お寿司を買って帰った。
息子は巻き寿司が大好きだ。巻き寿司なら片手でも食べられる。
そして息子の願いは、ただひとつ。
「ねえ、ママ、いいでしょ? 今日くらいいいでしょ?」
そう。YouTubeを見ながら、お寿司を食べたいのである。
今日は週の真ん中、水曜日なのだ。まあ、今日くらいいいか。
幸せそうにお寿司を食べる息子の隣で、私もなんとなく動画を見る。
そして最近ハマっている『Tシャツが乾くまで』の考察動画を、次から次へと見、自分自身も考察の沼へと入ってしまった。
――第3話まで見たところでの、私なりの考察――
私が、充は普通の精神状態の持ち主ではない、と強く感じたのは、運転免許証を6回も更新していることだ。
こんな人、普通はいない。
充には過去にも、何もかも置いたまま、突然姿を消してしまう癖があったのではないか。
免許証の有効期限が5年で、咲子と夫婦として暮らしているのが5年だとすると、咲子に出会う前の間に、充は何度も行方をくらませ、名前や暮らしを捨ててきたのかもしれない。
それは、結婚詐欺のようなことだった可能性もある。
咲子が結婚雑誌の編集者であることも、何かの伏線に思える。結婚への憧れや理想を仕事にしている咲子が、その「結婚」という形を利用する充と出会ってしまった。
充は最初、詐欺のような目的で咲子に近づき、結婚したのかもしれない。
けれど、咲子のことを本当に愛してしまった。
「さっちゃんに会うために、僕は生まれてきた」
一見、とてもロマンチックな言葉だけれど、私にはどうしても怪しく聞こえる。
まるで相手が聞きたい言葉を知り尽くしている、詐欺師のせりふのようだ。
咲子は毒親に育てられている。
親から逃れたい、誰かに無条件に愛されたい、自分だけを選んでほしいという思いが強い人は、こうした強い愛の言葉に引き寄せられやすい。
充は、そんな咲子の心の隙間に入り込んだのかもしれない。
けれど、5年の結婚生活のなかで、それはもう単なる嘘ではなくなった。
充は本当に咲子を愛した。
だからこそ、自分の過去を明かすことが怖くなったのではないか。
充が怪しいと思う点は、ほかにもある。
経済力は咲子のほうが上らしい。二人が暮らしている家も、おそらく咲子の持ち家だ。
さらに充は、乾燥機のフィルターの場所を咲子に教えていない。そのため、咲子は乾燥できなくなった洗濯機を「壊れた」と思い込んでいる。
まるで、わざと咲子をコインランドリーへ誘っているようにも見える。
充とあずさは、同じ施設で育った仲間か、もしくは兄妹なのではないかと思っている。
過去からお互いをよく知り、何でも言い合える二人が、半年前に偶然再会した。
充が以前から結婚詐欺まがいのことをしていた、あるいは何もかも捨てて逃げることを繰り返していたと知るあずさは、今度こそ充を助けたいと思った。
二人が長野へ向かったのは、過去に関係する場所を訪ねるためかもしれない。
あるいは、カウンセリング施設や更生施設、警察のような場所へ行き、充が人生を立て直すためだったのかもしれない。
その日は施設を見学するだけで、二人とも日帰りで東京へ戻るつもりだった。
そのあと充は、咲子にすべてを打ち明けるつもりだったのではないか。
けれど、自分の正体を知った咲子に捨てられてしまうかもしれない。そのことを、とても怖がっていた。
途中のサービスエリアでカレーパンを買い、バスに戻った充は、何かをきっかけに再びバスを降りてしまう。
偶然、何かを見つけてしまったのか。
更生施設へ行くのが怖くなったのか。
あるいは、咲子に自分の素性を知られたくなくなり、またすべてを捨てて逃げようとしたのか。
そのとき、あずさは眠っていた。
しかし、その後バスは思いがけず事故に遭い、あずさは亡くなってしまう。
充だけが生き残った。
充は、もう咲子のもとへ戻ることができなくなった。
咲子は、充がしたこと(いつきと長野へ行き、自分だけ生き残ったこと)について、樹にこう謝る。
夫がしたことは、私がしたことと同じです。家族だから、と。
咲子は、充と自分を同一視している。
けれど樹は、家族であっても個々は別の人間であり、他人なのだという考え方をしている(友人の家族が麻薬中毒でも友人は関係ないという例えをだして)。
この二人の違いは、とても大きい。
咲子は、自分と充の間にきちんと線を引かなければならない。
充のしたことまで自分の責任として背負うのではなく、充は充、自分は自分だと考えなければならない。
そして充も、誰かに救ってもらうのではなく、自分自身で更生しなければならない。
最初樹があずさの不倫を疑わっていたこの家族には、実は大きな嘘がない。
一方で、咲子と充の間には、お互いには見えていない矛盾や秘密がたくさんある。
怪しく見えた関係のほうが、実は風通しがよく、幸せそうに見えた夫婦のほうが、深い秘密を抱えている。
この物語は、人との関係を白か黒かだけで考えてはいけない、という話でもあるのかもしれない。
世界には「好きな人」と「どうでもいい人」だけがいるわけではない。
その間には、さまざまな濃淡があり、相手との距離や付き合い方も一つではない。
愛しているから一つにならなければならないわけでもないし、家族だからすべての責任を背負わなければならないわけでもない。
あずさが言っていたように、計算できない不均衡さや、アンバランスさや、適当さも、人と生きていくうえでは必要なのだと思う。
樹は、何かが起きると、すぐに予定を立ててスケジュールどおりに進めようとする。
けれど、あずさは完璧でなくていいと言っていた。
予定どおりにいかなくてもいい。
誰かとの関係が、きれいに釣り合っていなくてもいい。
すべてを説明できなくても、すべてを一つに決めなくてもいい。
白と黒の間にある、曖昧な場所を許すこと。
それが、人と人とが無理なく一緒にいるために必要なことなのかもしれない。
――というのが、今のところの私の考察です。
ふと気がつくと、食べかけのお寿司が、すっかり乾いていた。
やばい。
『Tシャツが乾くまで』ではなく、お寿司が乾いてしまったとさ。
おやすみなさい、金曜日の四話たのしみ。
